私(宣丞)の教育観
子供の教育について、あれやこれやと「うんちく」を述べるほど、教育に成功したわけではありません。ただ今現在進行形の教育途上というのが現実です。
そんな中から、手探りで見つけ出してきた教育観という、教育観などと呼べるかどうかはわかりませんが一応のガイドラインはあります。
それは子供の「主体性」というのがテーマです。主体性というのは、自発性とも、自立性とも違います。自分が中心で、自分が原因で、自分が出発点ですから、その結果も自分が受け取るというものです。そういうことが訓練として成されるようにどうするかが大きな課題になるといえるでしょう!
私の教育観を現す一番近いことを表現した「格言日記」がありますので、それを参考にしてみて下さい。
★格言ー無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂のなかに残りはしない。
---プラトン(古代ギリシャの哲学者)---
学習ということと勉強というのは、ちょっと意味が違うような気がする。勉強の中には努力や経験といったほかに学問や技術を学ぶことというようだが、学習の中には、学び習うという姿勢や、計画性、知識、態度、行動、好悪やなどまでも含めて体得することのようだ。だから、僕は勉強するというよりは学習の方がもっと幅が広くて奥が深い言葉のように思う。
だから僕の子供達には、勉強しなさいと言う言葉はあまり使わない。それよりも「今日は学習しましたか?」ということにしている。たぶん聞く方も勉強という言葉よりも学習という言葉の方が柔らかに聞こえるはずだから、強制されているような感覚を受けないですむと思う。それに、学習の意味は幅が広く深いので、「どんな学習をしました?」と問いかければ、学校であった様々な出来事まで話してくれる。だから、家庭での学習効果も大きいことがわかる。
里山におりてくる猿害が問題になっているらしいが、その猿の子育てには見倣うべきものがある。文字通り母猿は子猿に学習させるのであるが、それが実にうまいのだ。人間にも公園デビューというのがあるそうだが、猿にも集団へのデビューがある。人間は公園デビューがうまくいかないとそれで引っ込んでしまったりするが、猿はその点人間よりは頭が良い。最初は母猿が他の仲間と交流している。そして子猿は母猿から少し、ほんの少しと距離を離れるようになっていく。いつでも母猿は子猿を迎える姿勢がとれている。そういう安心感が新天地への冒険心を可能にするのだ。人間の問題点はこういう時期に子供との原信頼を築けないで終わってしまうことが問題なのだ。
学習ということの要点は、基本は主体性である。平たくいえば本人の自主性を高めることが必要ということなのであるが、何事も自分から出発しなければならないという基本があることがわかる。自分から出発したものは結局は自分に返るのであるから、ものごとは出発点をはっきりさせておかなければならないということになる。そうでないと、全ては親の勝手な強制と受け止められてしまい自分とは関係がなくなってしまうのである。自発性は求めて得られるものではないために、親の方は様々な工夫と同時に相当時間的な忍耐を覚悟する必要があるのだ。どちらにしても、学習というのは親と子と学校の共同作業であることは間違いない。そういう認識を三者が持てなければ、教育効果は上がらないと考えて良いだろう!★
そうは言っても具体的に日常の中でどのように子供に接するかという問題は大きな課題ではある。ケースバイケースということになりがちではあるが、一つだけ我が家の行事がある。それは、夕食後必ず反省会をすることである。そしてそれぞれが今日一日の出来事や、様々に感じたことを発表するのである。それは、親も同じである。そういう時間を重視することがとても大切なコミュニケーションになるし、様々な課題を発見する場所にもなる。
ここにもコーチング的な力は発揮されるようになる。どんな質問をするかで答えが変わってくるからである。 |